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2011年に発生した殺人事件は前年比1.5%減の1051件。
戦後最少を3年連続で更新した。
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日本で1年間に生まれる赤ちゃんの数、つまり出生数は110万人前後で推移しています。しかし、厚生労働省の「衛生行政報告例」によると人工妊娠中絶の件数は2005年度末で28万9127件。実数はその倍程度ではないかともいわれています。
母体保護法には、妊娠の継続や分娩が身体的または経済的理由によって母体の健康を著しく害するおそれのある場合か、強姦による妊娠の場合には、医師は人工妊娠中絶を行うことができると書いてあます。右のどちらにも該当しない妊娠中絶は堕胎罪《だたいざい》。「三人目の子どもは、もういらないから」という理由による中絶は、厳密にいえば犯罪なのです。
にもかかわらず、中絶が少なくとも約30万件、実際には出生数の半分の数十万件あっても不思議がない現状では、親に望まれずに生まれる赤ちゃんも少なからずいるだろうと考えざるをえません。たとえば、中絶したかった母親が費用が払えずに仕方なく産んだ赤ちゃんは、虐待や育児放棄の対象になる率が一般の赤ちゃんよりも高いでしょう。
実際、いわゆる捨て子は年に200人ほどあるといわれています。児童虐待や幼児虐待の件数は年を追うごとに増えており、育児ノイローゼの母親が子どもを殺してしまったといった子殺し事件もしばしば報道されています。これらは、いずれも「赤ちゃんポスト」導入の背景といえます。
赤ちゃんが捨てられ、殺されてしまうケースすらあるならば、赤ちゃんを安全に親から放したほうがましで、それには「赤ちゃんポスト」の設置が有益だという考え方は十分成り立つと思います。
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2009年に国内で発生した殺人事件(未遂を含む)は、前年比で15.4%減の1097件。戦後最少となった。
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未婚化とは、未婚者(一度も結婚していない人)の割合が増えることですが、少子化の過程では、晩婚化にともなって20歳代から30歳代にかけての未婚化が著しく進んでいます。女性20代後半では、1970〜2000年の間に未婚率は18%から54%へと3倍に増え、半分以上が未婚者となりました。また、男性30代前半では同じ時期に12%から43%へと3.6倍になっています。これらの年齢層では、その分だけ結婚している人が減って、出産も減っています。
生涯未婚率(50歳時点で一度も結婚をしたことのない人の割合)は、まだそれほど顕著には増えていませんが、2000年には男性で1割を超えるなど、今後急速に増加することが見込まれます。つまり晩婚化(結婚の遅れ)に加えて、非婚化(生涯結婚しない人の増加)が見込まれています。
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日本人はすぐ「実情」という言葉を口にします。「実情も知らないで……」とか「実情を無視して……」とか言われた場合、その言葉は抵抗のできない何かをもっていて、すべての人はこの言葉の前に沈黙せざるを得ません。
では一体「実情」とは何なのでしょう。もし相手の抗議が「事実を無視して……」なら討論ができます。というのは討論または調査を通じて事実を明らかにしていくことが可能であり、それによって本当に事実を無視していたか否かが解明できるからです。
ですか「実情」は明らかにこれと違います。すべての事実はすでに明らかなのに、それに対して「実情を無視して……」という抗議が来るわけで、その際、その実情なるものはほとんど説明されないのが普通です。それなのにこの「実情」という言葉は絶対化されます。では一体「実情」とは何なのでしょうか。
日本人は「正直」を美徳とし、「不正直」を悪徳とする民族であることは否定できません。しかし「日本人ウソツキ説」もあり、絶対に信頼できない民族であるともいわれています。ではなぜ、このように相反する批評が出てくるのでしょう。
江戸時代の町人学者・石田梅岩は「我物は我物、人の物は人の物。貸したる物はうけとり、借たる物は返し、毛すじほども私(わたくし)なく、ありべかかりにするは正直なる所也」と記していて、こういう点では日本人は確かに正直です。したがって所有とか貸借についてのごまかしは非常に嫌い、外債を完全に返済した唯一の国などといわれ、そういう点の評価は確かに高いのです。また俗諺では「泥棒にも三分の理」とは言っても、「詐欺師にも三分の理」とは言わず、それがうまく法をくぐったなどとなると、さらに嫌います。こういう点では潔癖といえるでしょう。
ところが、この梅岩の正直の定義に対して、ある人がそれは聖人の教えと違うのではないかと次のように反論しました。すわわち論語に「葉公孔子に謂て曰、吾党に躬(み)を直くする者あり。其父羊を攘(ぬす)む。然るを子これを証(あらわ)すとあり。父が悪事にても隠さずあらわすは、ありべかかりの正直なり……某思うに左にあらず、惣て世間の事、汝がいうがごとくさっぱりと裸には成がたき所あり。故に孔子も葉公にこたえて曰、吾党の直き者はこれに異なり、父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直き事其中にありとのたまへり。汝も我も、同じく儒書を学び、かように相違あるはいかん」と。
これに対して梅岩はまず次のように答えています。「汝は父が悪事を証す悪人を反って正直者」と思っているのは「理に闇(くら)きゆえ」是非がわからなくなっているからだと。そしてなぜそう言えるかを次のように述べています。「彼が不善を知らんと思はば、実情を知るべし」。問題は「盗んだ」という「事実」ではなく、「実情」だというのです。
「実情の発(おこ)る処をいわば、ここに人あらんに、その父、人を殺さば、はっと驚くは子の常なり。又父が羊を攘(ぬすみ)しと聞ときも、はっと驚く情(こころ)発るは、鏡に物の移り、形に影のそうがごとく、間に髪を入れず、ここにて豈(なんぞ)直不直(ちょくふちょく)を論ぜんや。これ惻隠(そくいん)の情にて実情なり」と。
ここで梅岩は「実情」という言葉を正確に定義しています。すなわち、それは「父が盗んだ」という「事実」ではなく、それに対して反射的に起こった子の「情」のことなのです。そして彼にとっての正直とは、この「実情」に対する正直なのであり、さらに次のように述べています。
「常人は勝手にひかれ思慮おおく、其意(そのこころ)に思うは、此事人が知るべきか、定めて知るべし。隠し課(おおす)ことはなるまじ。迚(とて)も隠されぬことならば、人にいわれぬ前に、我よりいうが罪もかろくて然るべしと思い、父の悪事をあらわすは、己を思う所より父を捨るに至る。不幸ものにて、大悪人なり……」
いわば、その瞬間に起こる情、すなわち「実情」に対して正直ではなく、そこに「己を思う」思慮が入ってくるのは大悪人で、不正直なのです。そして梅岩はこのように誤解するのは「思慮と実情」の区別を知らないからで、「惻隠の情発(おこる)所を直に行うを正直という」としています。
こうなると、事実と違ったことを言うのが実情に対して正直である場合には、事実の通り言うのは嘘つきで、事実を基にすれば嘘であることが逆に正直だということになります。
正直の定義が以上の通りであれば、「真実」を言いますと宣言して虚偽の証言をしても、それが「実情に対する思慮なき正直」なら、その人は罪悪感を感じなくて当然であり、そのとき、実情を無視して事実を言えば、逆に不正直ということになります。さらにそれによって、自分の罪や責任をまぬがれようとする思慮が入っていれば、否、入っていると見なされれば、逆に大悪人として糾弾されることになるでしょう。
これは国会での証言だけでなく、現代のさまざまな問題はこの「実情の絶対化」にあると思われます。「実情への正直」は、時には正直として機能しますが、時には虚偽として機能します。人々はそれを当然とし、それを当然と認めない者には憤慨し、抗議し、罵詈讒謗を口にしながら、一方、これによって生ずる政財界などの腐敗に憤慨しています。だがその人たちもひそかに呟いているはずです。「実情も知らないで……」
これでは、いつまでたっても同じことでしょう。結局、それが何によって発生し、人々がなぜ「実情」「実情」といい、何がゆえに「実情を知らないで……」と抗議し、「実情に正直」ならなぜ事実への虚偽に良心の痛みを感じないのかを、もう一度、伝統にさかのぼって検討する時期にきているように感じられます。
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日本国内において、他殺による死亡者数は何人くらいかご存知でしょうか。報道などでは、親族殺人や見境のない殺人が多くなっている印象があるのですが、国内の他殺は増加しているのでしょうか?
厚生労働省の人口動態統計によると、他殺による死亡者数は2006年に580人と自殺者数の50分の1のレベルとなっています。それでも1日に1人〜2人が殺されているということになります。
なお、他殺と殺人事件の件数はイコールではなく、殺人事件はもっと多いのです。警察庁の「平成17年の犯罪」によると、2005年の殺人犯罪は認知件数で1,392件、検挙件数で1,345件起こっています。また、殺人犯罪の被害者数も1,435人にのぼっています。しかし被害者のうち死者は643人、重傷者328人、軽傷者464人となっていて、殺人事件の被害者が総て死亡に至るわけではないのです(日本の他殺率が世界の中でも最も低い水準である点については図参照)。
次に、犯罪の種類によって犯人と被害者との関係がどのように違っているかを図録化してみました。データは犯罪不成立、訴訟・処罰に至らないような事件を除いた検挙件数について、被害者と被疑者との関係別に構成比をみたものです。
殺人と傷害は、親族及びその他の面識のある者に対する犯罪である比率が高く、特に殺人は4割以上が親族等に対して犯されています。一方、財産犯及び性犯罪は、面識のない者に対して犯される場合が多く、ただし、財産犯のうち恐喝、性犯罪のうち強姦については、面識のある者に対して行われる比率が高いことがわかります。


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ダッハウという町をご存知でしょうか。ここにはナチ強制収容所第一号があり、後のあらゆる収容所はここを模範にしてつくられ、ここで訓練された者がその運営にあたりました。
この収容所はユダヤ人には関係なく、ドイツの神学者・牧師・神父を入れて「処理」するところ、有名な神学者マルチン・ニーメラーもここにおり、後にはロシア人やポーランド人も入れられ、日本人の神学生も一人「処理」されているといいます。
ナチがこの収容所をつくった動機は、もちろん経済になく、単純な物質欲よりももっと恐ろしい、思想的使命感に基づく神学者・牧師・神父への「処理」機構としてつくられたのです。
日本のあるドイツ文学の教授が『ミュンヘンの裏町で』というエッセイの中に、このダッハウを描写している部分があるので、次に引用させていただきます。
「この美しい町(ダッハウ)をはずれ、東の方へ二キロほど行った森のむこうの沼地のなかに、ナチがつくった強制収容所があるのです。……戦争中の収容所の火葬場がまだ建っています。消毒室と準備室を通ると、三番目の部屋がガス室になっていて、うすぐらい室内は煉瓦の壁を白く塗ってあります。裸の人間をギュウギュウ詰めに(日本の国電のように!)すると、三百人ほど入ったでしょう。
天井に小さなスプリンクラーのようなものがあります。そこからチクロンβガスを噴出させたのです。立ったまま死んだ人を、隣室のドアをあけて、一体ずつもぎとるように引き倒し、金歯などはずして、大きなオーブンのような炉で重油をかけてゆっくり焼くと、死体から石鹸用の脂と肥料になる灰がとれました。
なにもかもがいかにもドイツ的です。囚人一人につき、最低の食費や、衣料代、毒ガス代に焼却用の重油代まで計算した書類には、逆に囚人から没収して国庫収益となる現金、金歯および強制労働による生産、死体からとれる脂代と肥料代まで計算してあって、さしひき国にとってのプラス(黒字)は二千マルクなり、などと書いてあります」
この教授は、同じ残虐事件といっても、日本人とドイツ人の行為が全く異質であることを指摘し、同時に、自民族の行為に対する対し方も全く違うと述べています。
彼らはカーッとなって頭に来て、無我夢中で何かをしでかしてしまったという形の、戦争中の、そして今も本質的には少しも変わらない日本人とは全く違います。まず思想が先行し、それが冷徹な計算で裏打ちされ、ついで経済性まで追求され、そして正確に記録され、かつそのままに残しているのです。彼らは日本人のように、終戦時にまたカーッとなって、あわてて全書類を焼き棄ててしまうといったこともしません。
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