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日本人はすぐ「実情」という言葉を口にします。「実情も知らないで……」とか「実情を無視して……」とか言われた場合、その言葉は抵抗のできない何かをもっていて、すべての人はこの言葉の前に沈黙せざるを得ません。
では一体「実情」とは何なのでしょう。もし相手の抗議が「事実を無視して……」なら討論ができます。というのは討論または調査を通じて事実を明らかにしていくことが可能であり、それによって本当に事実を無視していたか否かが解明できるからです。
ですか「実情」は明らかにこれと違います。すべての事実はすでに明らかなのに、それに対して「実情を無視して……」という抗議が来るわけで、その際、その実情なるものはほとんど説明されないのが普通です。それなのにこの「実情」という言葉は絶対化されます。では一体「実情」とは何なのでしょうか。
日本人は「正直」を美徳とし、「不正直」を悪徳とする民族であることは否定できません。しかし「日本人ウソツキ説」もあり、絶対に信頼できない民族であるともいわれています。ではなぜ、このように相反する批評が出てくるのでしょう。
江戸時代の町人学者・石田梅岩は「我物は我物、人の物は人の物。貸したる物はうけとり、借たる物は返し、毛すじほども私(わたくし)なく、ありべかかりにするは正直なる所也」と記していて、こういう点では日本人は確かに正直です。したがって所有とか貸借についてのごまかしは非常に嫌い、外債を完全に返済した唯一の国などといわれ、そういう点の評価は確かに高いのです。また俗諺では「泥棒にも三分の理」とは言っても、「詐欺師にも三分の理」とは言わず、それがうまく法をくぐったなどとなると、さらに嫌います。こういう点では潔癖といえるでしょう。
ところが、この梅岩の正直の定義に対して、ある人がそれは聖人の教えと違うのではないかと次のように反論しました。すわわち論語に「葉公孔子に謂て曰、吾党に躬(み)を直くする者あり。其父羊を攘(ぬす)む。然るを子これを証(あらわ)すとあり。父が悪事にても隠さずあらわすは、ありべかかりの正直なり……某思うに左にあらず、惣て世間の事、汝がいうがごとくさっぱりと裸には成がたき所あり。故に孔子も葉公にこたえて曰、吾党の直き者はこれに異なり、父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直き事其中にありとのたまへり。汝も我も、同じく儒書を学び、かように相違あるはいかん」と。
これに対して梅岩はまず次のように答えています。「汝は父が悪事を証す悪人を反って正直者」と思っているのは「理に闇(くら)きゆえ」是非がわからなくなっているからだと。そしてなぜそう言えるかを次のように述べています。「彼が不善を知らんと思はば、実情を知るべし」。問題は「盗んだ」という「事実」ではなく、「実情」だというのです。
「実情の発(おこ)る処をいわば、ここに人あらんに、その父、人を殺さば、はっと驚くは子の常なり。又父が羊を攘(ぬすみ)しと聞ときも、はっと驚く情(こころ)発るは、鏡に物の移り、形に影のそうがごとく、間に髪を入れず、ここにて豈(なんぞ)直不直(ちょくふちょく)を論ぜんや。これ惻隠(そくいん)の情にて実情なり」と。
ここで梅岩は「実情」という言葉を正確に定義しています。すなわち、それは「父が盗んだ」という「事実」ではなく、それに対して反射的に起こった子の「情」のことなのです。そして彼にとっての正直とは、この「実情」に対する正直なのであり、さらに次のように述べています。
「常人は勝手にひかれ思慮おおく、其意(そのこころ)に思うは、此事人が知るべきか、定めて知るべし。隠し課(おおす)ことはなるまじ。迚(とて)も隠されぬことならば、人にいわれぬ前に、我よりいうが罪もかろくて然るべしと思い、父の悪事をあらわすは、己を思う所より父を捨るに至る。不幸ものにて、大悪人なり……」
いわば、その瞬間に起こる情、すなわち「実情」に対して正直ではなく、そこに「己を思う」思慮が入ってくるのは大悪人で、不正直なのです。そして梅岩はこのように誤解するのは「思慮と実情」の区別を知らないからで、「惻隠の情発(おこる)所を直に行うを正直という」としています。
こうなると、事実と違ったことを言うのが実情に対して正直である場合には、事実の通り言うのは嘘つきで、事実を基にすれば嘘であることが逆に正直だということになります。
正直の定義が以上の通りであれば、「真実」を言いますと宣言して虚偽の証言をしても、それが「実情に対する思慮なき正直」なら、その人は罪悪感を感じなくて当然であり、そのとき、実情を無視して事実を言えば、逆に不正直ということになります。さらにそれによって、自分の罪や責任をまぬがれようとする思慮が入っていれば、否、入っていると見なされれば、逆に大悪人として糾弾されることになるでしょう。
これは国会での証言だけでなく、現代のさまざまな問題はこの「実情の絶対化」にあると思われます。「実情への正直」は、時には正直として機能しますが、時には虚偽として機能します。人々はそれを当然とし、それを当然と認めない者には憤慨し、抗議し、罵詈讒謗を口にしながら、一方、これによって生ずる政財界などの腐敗に憤慨しています。だがその人たちもひそかに呟いているはずです。「実情も知らないで……」
これでは、いつまでたっても同じことでしょう。結局、それが何によって発生し、人々がなぜ「実情」「実情」といい、何がゆえに「実情を知らないで……」と抗議し、「実情に正直」ならなぜ事実への虚偽に良心の痛みを感じないのかを、もう一度、伝統にさかのぼって検討する時期にきているように感じられます。
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日本国内において、他殺による死亡者数は何人くらいかご存知でしょうか。報道などでは、親族殺人や見境のない殺人が多くなっている印象があるのですが、国内の他殺は増加しているのでしょうか?
厚生労働省の人口動態統計によると、他殺による死亡者数は2006年に580人と自殺者数の50分の1のレベルとなっています。それでも1日に1人〜2人が殺されているということになります。
なお、他殺と殺人事件の件数はイコールではなく、殺人事件はもっと多いのです。警察庁の「平成17年の犯罪」によると、2005年の殺人犯罪は認知件数で1,392件、検挙件数で1,345件起こっています。また、殺人犯罪の被害者数も1,435人にのぼっています。しかし被害者のうち死者は643人、重傷者328人、軽傷者464人となっていて、殺人事件の被害者が総て死亡に至るわけではないのです(日本の他殺率が世界の中でも最も低い水準である点については図参照)。
次に、犯罪の種類によって犯人と被害者との関係がどのように違っているかを図録化してみました。データは犯罪不成立、訴訟・処罰に至らないような事件を除いた検挙件数について、被害者と被疑者との関係別に構成比をみたものです。
殺人と傷害は、親族及びその他の面識のある者に対する犯罪である比率が高く、特に殺人は4割以上が親族等に対して犯されています。一方、財産犯及び性犯罪は、面識のない者に対して犯される場合が多く、ただし、財産犯のうち恐喝、性犯罪のうち強姦については、面識のある者に対して行われる比率が高いことがわかります。


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ダッハウという町をご存知でしょうか。ここにはナチ強制収容所第一号があり、後のあらゆる収容所はここを模範にしてつくられ、ここで訓練された者がその運営にあたりました。
この収容所はユダヤ人には関係なく、ドイツの神学者・牧師・神父を入れて「処理」するところ、有名な神学者マルチン・ニーメラーもここにおり、後にはロシア人やポーランド人も入れられ、日本人の神学生も一人「処理」されているといいます。
ナチがこの収容所をつくった動機は、もちろん経済になく、単純な物質欲よりももっと恐ろしい、思想的使命感に基づく神学者・牧師・神父への「処理」機構としてつくられたのです。
日本のあるドイツ文学の教授が『ミュンヘンの裏町で』というエッセイの中に、このダッハウを描写している部分があるので、次に引用させていただきます。
「この美しい町(ダッハウ)をはずれ、東の方へ二キロほど行った森のむこうの沼地のなかに、ナチがつくった強制収容所があるのです。……戦争中の収容所の火葬場がまだ建っています。消毒室と準備室を通ると、三番目の部屋がガス室になっていて、うすぐらい室内は煉瓦の壁を白く塗ってあります。裸の人間をギュウギュウ詰めに(日本の国電のように!)すると、三百人ほど入ったでしょう。
天井に小さなスプリンクラーのようなものがあります。そこからチクロンβガスを噴出させたのです。立ったまま死んだ人を、隣室のドアをあけて、一体ずつもぎとるように引き倒し、金歯などはずして、大きなオーブンのような炉で重油をかけてゆっくり焼くと、死体から石鹸用の脂と肥料になる灰がとれました。
なにもかもがいかにもドイツ的です。囚人一人につき、最低の食費や、衣料代、毒ガス代に焼却用の重油代まで計算した書類には、逆に囚人から没収して国庫収益となる現金、金歯および強制労働による生産、死体からとれる脂代と肥料代まで計算してあって、さしひき国にとってのプラス(黒字)は二千マルクなり、などと書いてあります」
この教授は、同じ残虐事件といっても、日本人とドイツ人の行為が全く異質であることを指摘し、同時に、自民族の行為に対する対し方も全く違うと述べています。
彼らはカーッとなって頭に来て、無我夢中で何かをしでかしてしまったという形の、戦争中の、そして今も本質的には少しも変わらない日本人とは全く違います。まず思想が先行し、それが冷徹な計算で裏打ちされ、ついで経済性まで追求され、そして正確に記録され、かつそのままに残しているのです。彼らは日本人のように、終戦時にまたカーッとなって、あわてて全書類を焼き棄ててしまうといったこともしません。
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日本人が持っている基本的な神概念と、聖書の概念との相違について考えてみたいと思います。
日本人が「神」といった場合、これは名詞です。そしてその内容を動詞的だとは誰も思わないでしょう。しかし聖書では不思議なことに動詞になっています。
聖書には神とは何かということを、神が自分で宣言するという形のいわゆる一人称断言法で定義している箇所があります。
原語(ヘブライ語)では、エゴ・エミ・ホ・オーンとなっていますが、『英訳聖書』はこれを I am the Being と訳しています。「私は Being である」……。これはどういう意味でしょう? Be が「ある」ですと Being は「ありつつある」ですが、原語のオーンというのは Being とはちょっと違って、正確には am の現在分詞の男性、単数、主格で、「過去からあって今も続いてある」という意味の普通の Be 動詞なんです。翻訳聖書ではこれを「ありてあるもの」と訳していますが、「もの」ではありませんし、第一、これでは意味が通じません。
『日本人の神概念とヨーロッパの神概念』という本をドイツで出版された神学者八木誠一氏は「ヨーロッパ人の神概念というのはむしろ動詞的であって、言うならば万有引力といった感じが強い」と述べられています。
万有引力があるかといえばもちろんあるといえますが、これは「もの」として「ある」のではありませんから、「もの」の存在としてはないといえばないんです。そしてこれは人間が生み出した概念にすぎないといえば、まさにその通りなのですが、その概念で把握しうる対象があり、われわれは全員がその影響下にあることもまた否定できないわけです。したがってこれは客体としての一つの関係としてあるわけで、一つの概念としてつかめる対象としては確実に「ある」といえるのですが、「もの」としてあるのではない。聖書における神のとらえかたも非常にこれに近いわけです。
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―― すごい。しかし、我々が知りたいのは、そうした「火事場のバカ力」を発揮する秘訣なんです。村上先生は遺伝子のON/OFF機能という表現をされていますが。
村上 ええ。人間というのはね、約60兆という莫大な数の細胞から成り立っていて、それぞれの細胞の核の中に、約30億の遺伝情報がしまい込まれているのです。それはどういうことかというと、例えば、爪の細胞、髪の毛の細胞、皮膚の細胞と、それぞれの細胞がありますが、核の中にしまわれている遺伝情報は、皆、同じなんです。爪には爪の情報しか入ってないわけではない。髪の毛の情報、皮膚の情報・・・、体全体の情報が爪の細胞の中に入っているんです。
にも関わらず、爪の細胞は、爪以外のものを形成することはありませんし、皮膚細胞が髪の毛をつくることもない。髪の毛の細胞が、急に心臓の仕事をしたい、と言い出すこともない。どの細胞も、体のほかの部分になれる可能性をもっているのに、そうはならない。この調節機能をONとOFFと呼んでいるんです。
つまり、爪の細胞においては、爪になる遺伝子のスイッチだけがONになっており、それ以外の遺伝子の働きはOFFになっている。そういうことが、脳や神経、免疫細胞に至るまで、体のすべての細胞で起こっていると。そして、このONとOFFは一生を通じて固定されたものではなく、環境の変化や外からの刺激に加え、心の持ち方や精神的な作用によって変化するということがわかってきました。
それは恋をしたり、思い切り笑ったりしたときに、遺伝子のON/OFF状態に変化があるということです。そうしたことが、科学的に確かめられている。私も、いま、吉本興業と組んで、この研究を進めている最中です。まだまだ解明されていないことがほとんどで、その解明こそが、我々が今後、取り組まなければならないテーマであることは間違いありませんが、少なくとも、遺伝子というのは、感動したりプラス発想することによって、より活性化することは分かっているわけなんです。
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1999年〜2000年の人口10万人あたりの強姦認知件数
カナダ/ Canada 78.08件
アメリカ/ The United States 32.05件
イギリス/ Britain 16.23件
フランス/ France 14.36件
ドイツ/ Germany 9.12件
ロシア/ Russia 4.78件
イタリア/ Italy 4.05件
日本/ Japan 1.78件
オーストラリア/ Australia 81.41件
スウェーデン/ Sweden 18.23件
韓国/ South Korea 12.98件
オランダ/ The Netherlands 10.36件
日本が他国と比べて大きく異なる点があります。それは 「女性や児童に対する性犯罪が飛びぬけて少ないこと」 です。海外で生活したことのある人なら、小学生が暗くなってから一人で塾通いできる国が世界にいくつあるか思い浮かべると、実感としても得られる認識だといわれています。
なお中東諸国の女性の性犯罪もありえないほど少ないのですが、これはイスラムの国では、たとえレイプであっても女性が配偶者以外と性行為に及ぶと鞭打ちを含む罰則があるというように、苛烈な罰則があることと無縁ではありません。
アニメやマンガ、ゲームを楽しむことで子供への性犯罪が起こるというのなら、世界中でもっともアニメやマンガ、ゲームが溢れている日本が、なぜこれほどまでに児童性犯罪が少ない安全な国なのでしょうか。
先進国の中には、オランダやドイツ、スイスのように 16歳で売春が合法の国すらあります。また児童の売春については、極度の貧困などにより、それでしか生きる方法のない場合には、緊急避難として一定の理解を示す内容となっています。日本では、児童の売春など問題外の行為ですが、世界には厳しい現実があるのですね。
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ある家庭でのお話。2人兄妹の小学生の兄が、近所からケーキをひとつもらってきました。おかあさんは「妹と分けて食べなさいね」といって、さらに「どうしてそうするのがいいのかわかる?」と尋ねた。兄のほうは「妹がかわいそうだから」と答え、小さい妹は「今度私がもらったときにお返しをあげるから」といいました。
母親は2人にこう諭しました。「相手がかわいそうだからというのでは、にくたらしい人には分けてあげないことになるし、今度お返しをもらうためなら、お返しがこないような人には分けないでしょう。そうじゃなく、一つのケーキを2人で分けて食べたほうがおいしい──そう思える子になってちょうだい」。
この話は、道徳と宗教の違いを示す場合によく用いられるようです。相手がかわいそうだから恵んでやるというのは、道徳であり、慈善ですが、仏教でいう「布施」はそういうものではありません。一緒に食べたほうがおいしいというのが「布施」なのです。
大乗仏教の仏道修行である「六波羅蜜」(彼岸に到るための六つの道)のうち、第一番目が「布施」と呼ばれる修行です。私たちは一般に「布施」というと、すぐに在家の信者がお寺やお坊さんに財物(金品)を施すことだと考えがちですが、しかし、それは「財施」といって「布施」の中の一つです。たとえば、お坊さんが法話をすることも「法施」と呼ばれる「布施」の一つです。また財物だけでなく、他人にやさしくしてあげたり、いたわりの言葉をかけることだって、もちろん「布施」です。留意しなければならないことは、「布施」とは人のためにしてあげるのではなく、本来させていただくものだということです。
こんな例があります。ベトナムの難民センターでの話。そこでは、お坊さんだけは員数外になっていたといいます。というのは、お坊さんが国連軍や米軍から配給や給食を受けると、難民センターに収容されている貧しい人たちが「布施」をする機会を失ってしまうからです。貧しい人たちがギリギリの給食生活の中から「布施」をして、お坊さんは生きていく。お坊さんが国連軍や米軍の給食を受けると、それは民衆を見捨てたことになってしまうのです。だから、当然お坊さんは「布施」を受けても「ありがとう」の一言も言わないのだそうです。
仏教圏において「布施」のような行為は、まず同一血縁集団の中ではじまります。これが発展すれば、同一血縁集団内で困っている者がいれば助けるのはあたり前、というより、むしろ喜びとなっても不思議ではありません。したがって、中国や韓国のように広範囲で濃厚な血縁関係を保持し、血縁集団を構成する国では、その中の相互扶助は当然とされます。もっともそれは一面から見れば、収入が自分の収入か一族の収入か明確でなく、貸借も貸したのか与えたのか、借りたのかもらったのか明確でない社会を現出することも事実です。
余談ですが、こういった国では保険事業は発達しないといわれます。一方日本は、各世帯あたりの保険加入額がアメリカを抜いて世界一になったといいますが、これが何を意味しているのか、なんだか怖い気もします。
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